スクールゾーン（仮）


喩えるならそれは猛毒なようなもので、一瞬にして身体中を駆け巡り、心臓が重く激しく脈打つ。
息を吸うのも吐くのも苦しい。こんなの、初めてだ。

背中のランドセルをガチャガチャさせながら、学校から家までの帰り道を無心に走る。
家に着いた頃には息が切れ、汗だくでぐしゃぐしゃになっていた。
切り揃えられた前髪が額に張りつく感触が不快で手の甲でその汗を拭う。
心臓が五月蝿く鳴っているのは走ったからだと言い聞かせる。
息を整える為に深く呼吸をして、火照った身体が冷めていけば頭も醒めると思った。
だけど脳が冷静になればなる程にあの子の顔が浮かぶ。
僕はどうかしてしまった。

平凡な毎日を過ごしていた僕に、それは突然訪れる。
いつものように本を読みながら校門を潜ると、見慣れた風景に少し違和感を感じて視線を本からずらす。
顔を上げれば見知らぬふたりが目の前を横切るように歩いていた。
ひとりは上品な雰囲気を漂わせた自分の母親と同じ歳くらいの女性。
ただ、自分や同級生の母親達と比べ物にならない程綺麗だった。
もうひとりはその女性の娘のようで、ここら辺では見かけない女の子。僕と同じ年頃だろうか。
ああきっと転校生だ、そう悟った。
美人な母親で羨ましいなんて呑気な事を考えながら、その少女の姿をもう一度よく見た。
柔らかい栗色のボブヘアー、お人形さんのように透き通った素肌、母親譲りの綺麗な横顔。

息が出来なかった。

登校時間の子供たちの声が騒がしい朝なのに、周りの雑音が何一つ聞こえなくなった気がした。
身体が硬直して持っていた本を落としそうになりかけた僕はその場から動けない、目が離せない。
熱視線を感じてか、その少女はこちらに大きく垂れがちな愛らしい瞳を向ける。
一瞬だけ視線がぶつかったが、直ぐに少女は顔を前に戻して学校内へと入っていった。
暫く僕はぼんやりと立ち尽くしていたが、チャイムが鳴ったので慌てて学校内へと駆け込んだ。

「今日、転校生来るらしいぜ」

どこからそういう情報を仕入れるのか知らないが、教室内ではクラスメイト達が浮き足立っている。
いつもの僕なら大して興味のない話題の筈だった。
しかし、その『転校生』とやらがさっきの少女かと思うとそわそわして仕方がない。
あんなに綺麗な子と同じクラスになれるなんて嬉しいような、恥ずかしいから嬉しくないような。
そもそもさっきのあの子がこのクラスの転校生だという確証はどこにもないのだし。
そうやってぐるぐると頭の中で思考を巡らせていると後ろから頭をつつかれた。

「おい、カズ」
「何だよ痛いな、真ちゃん」

人の事を言えたもんじゃないが鋭い目付きに銀色の短髪頭、小６にしては体躯の大きな少年。
福田真太、僕の幼馴染みだ。

「何そわそわしてんだよ」
「べ、別にしてないよ・・・」
「転校生、昨日俺ん家来た」
「何で！？」
「俺の母ちゃん町内会長だから、挨拶に来たんだよ。ほら、近くにマンションあるだろ？あそこに越してきたって」
「ど・・・どんな子だったの？」
「なんかツンケンした冷たそうな女だったな。ニコリともしねーし」
「女の子！髪は長い？短い？垂れ目のすごく美人じゃなかった？」
「髪は短かったような。美人かどうかは知らね。ってかそこまで覚えてねーよ。あんまり興味なかったし・・・」

僕は深く溜息を吐く。何て奴だ。しっかり見ておけよと心の中で思う。
何はともあれ、女の子だったという証言からさっきの子だという確立が僕の中で非常に高くなった。

「何か母ちゃんが『テンキンゾク』とか言ってたな。東京から来たんだとよ」
「ふぅん・・・」

幼馴染みの最後の方のあまり聞き慣れない言葉には取り敢えず空返事。
ガラリと教室の引き戸が開いて、『起立』という学級委員の声にクラス全員が椅子から立ち上がる。
『おはようございます』と担任の吉田先生に向かって挨拶するのは、毎朝の決まり事。
そしてやはり、教壇の前には吉田先生に連れられたあの少女の姿があった。
妙に張り詰めた空気がクラス中に充満している。
僕は嬉しいやら恥ずかしいやらよく解らなくて正面を直視出来ずに下を向く。
そんな姿を後ろの席の幼馴染みに見られていたのか、椅子を軽く蹴られた。

「今日からこのクラスに転校してきた・・・名前、自分で言えるな？」

吉田先生より視線を投げられると少女はコクリと頷いて口を開く。

「青木優梨子です」

鈴を転がしたような綺麗な声色に胸がドクンと強く打ちつけた。
顔を上げてあの子を視界へ入れるとまた周りの音が何も聞こえなくなる。
いつもの教室が白黒に見え始め、クラスメイト達の姿もぼんやりと霞んでいるようだ。
さっき見た横顔も綺麗だったが正面から見ても本当に美人だ。
大きな瞳に泣き黒子、そして少しだけ物憂げな表情が幼いながらに艶やかであった。
『あおきゆりこ』その容姿だけでなく名前の響きも美しい。
僕は今まで生きていて感じた事のないような奇妙な胸の痛みを味わった。

「青木さんはお父さんのお仕事の都合で東京からこっちへ越して来ていて・・・」

先生の長くて薄っぺらい転校生の説明文と、決まり文句の『皆、仲良くしていってください』とかは耳の奥にはあまり留まらなかった。

（続く）